先日、ドイツの保育園の食事風景を見せてもらいました。(下の写真)そこには、保育者が乳児に離乳食を食べさせる場面を周りで取り囲んで見ている、さまざまな年齢の子たちがいました。発達過程の異なる子どもたちが複数で取り囲んでいるということです
このような風景を見ると、日本では、それでは乳児は周りが気になり、気が散って落ち着いて食べることはできないのではないかということを危惧するでしょう。乳児にとっては、食べさせてくれる大人一人だけを見ることによって、誰が食べさせてくれているのか、また、きちんと個々の発達を理解した人がいることが子どもに安心感を与えると思われています。また、家庭ではお母さんは一人であり、いろいろな人に見てもらうわけではないということも言われます。しかし、人はいろいろな環境で育ち、その環境から保育のモデルを求めることがありますが、昔は、お母さん一人が必ずしもいつも子どもの世話をしていることはありませんでした。家にはお子守さんがいたり、お手伝いさんがいたり、また、近所のおばちゃん、いろいろな人に抱かれて育ちました。また、家族内にも兄弟がたくさんいましたし、祖父母がいた家庭も多くありました。いつも同じ人がおむつを替えたり、食事を食べさせたりしてはいませんでした。ただ、それらの人々は、突然ある日子どもを見ていたわけではなく、普段から、社会みんなで子どもたちを見守っていたのです。子どもたちが安心感を持つのは、お母さん一人が自分を見ていてくれるのだという気持ちよりも、地域の人みんなが見てくれているのだという確信のほうが精神的に安定をもたらしていた気がします。これは、隣の家が遠いところにある過疎地などは違うかもしれませんが、逆に村の人がみんな家族という意識だったような気がします。
川田学準教授は、学術集会の中でこう言っています。「親が子どもと向き合って、じっくり食事をとるということは大切なことかもしれません。しかし、幼い子どもにとって食には遊び的要素が満載で、思い通りにはなりませんし、1対1で向き合っていると息苦しくなることもあるように思います。」かつて、ある雑誌の中で、ベテラン保育者が言っていたことです。「食事は遊びではあるまいし、手でぐちゃぐちゃ食べたり、手づかみで食べたりするなんともってのほかです。ですから、私たちは、乳児から子どもの後ろに回って、キチンと手を添えてあげてスプーンの使い方を教えるのですよ!」もちろん、食事は大人のいう「遊び」ではありません。しかし、子どもにとっての学びである「遊び」であることとして、食を見直さなければなりません。しかし、どうしても子どもの行動を母親がネガティブにとらえてしまうのは、現代的な環境にあると川田さんは指摘しています。「乳児と若い親という、発達的に最もかけ離れたペアによる1対1の食事ですと、子どもが他者を観察し、好奇心を働かせる余裕(遊び)が、また美味しそうに食べるのを見て思わず手を出してみたり、食具の使用を模倣したくなるというプロセスがなかなか生まれにくいでしょうし、いきおい、“食べなさい”“遊ぶ”“自分でやりたがる”という面が、ネガティブにとらえられ、葛藤だらけの食事になってしまうこともあるでしょう。」
育児の中で、子どもの行動をネガティブとして受け取ることは、何も食事の場面だけではなく、子どもの特徴であるさまざまな行動についても起こりうることのような気がします。それが、最近の子どもへの虐待につながることになっていることもあるような気がします。子どもの遊び、生活の中で子ども集団での行動としての「共生(協力)」も「共食」と同じように人間としての特徴であることをもう一度思い出すべきでしょう。
共生の中での共食
2010.11.12