その他

「人見知る」

2016.04.30
    あっと言う間の1ヶ月、新しく入ってきた子ども達もいつの間にかクラスに溶け込み、思い思いの遊びが出来るようになってきました。
 入園式の時にも話しましたが、新入園児にとって保育園に預けられるということは、ジャングルの中に突然置き去りにされるようなものです。その様な中、慣れてきたということは、周りにいるライオンやゴリラ、チーターのような見たこともない先生は、「私の事を食べようと狙っている怖い動物ではない」ということに気が付いてきたという事です。「大好きなお母さんとも仲良く話しているし、自分に対しても優しく関わってくれるから大丈夫かな」と泣きながらもチラチラと目線を送り確認していたのでしょう。そして、少し信じても良いかなと思ってもらえたようです。もちろんまだまだ不安定になる時もありますが、更に信頼関係を深めていきたいと思っています。そして、子ども達自ら行動し、意欲的に遊ぶ姿が今以上に見られるのを楽しみにしています。(^_^)V
 
(おたよりの続き)
 赤ちゃんは、いわゆる「人見知り」をするようになります。「見知り」とは、「見知っている人。面識のある人。」という意味と、「見て知ること。見おぼえ。」という意味の二通りあります。赤ちゃんは、人のどこを見て、知るのでしょうか?そして、何のために人の顔を区別しなければならないのでしょう。「昨日までの世界」を書いたジャレド・ダイアモンド氏によると、「小規模集団の社会では、集団の内でも外でも、移動の自由が制限されている。そのような社会では、人は自分の友人か、敵か、それとも見知らぬ他人かで識別される。」と書いています。この「敵」とは、「自分の集団と敵対関係にある近隣の血縁集団や村落の人々であるが、その人物の名前や自分とどのような関係にあるかということや、時にはその人物の風貌まで知っている。」と分類しています。
 それに対して、「見知らぬ他人」とは、自分が属する小規模血縁集団との関係や接触をほとんど持たない、遠く離れたどこかの集団の人物で、どこの誰であるかを自分が全く知らない人間のことである。」彼らとは、基本的には遭遇することはほとんどありませんが、もし、彼らが、自分たちのすむところに来る場合には、彼らにとって非常に危険なことなのです。ですから、自分たちにとってもそんな危険を冒してまで来るということは、彼らは、何か魂胆がある、略奪しようとしてやってきたのか、自分たちを殺そうとしてやってきて、その斥候があたりの様子をうかがっているのではないかと思うことが、現実的には最もあり得る話ということになるのです。
 赤ちゃんは、6~12カ月頃になると、ハイハイやよちよち歩きによって、自分の意思で移動することが可能になります。それは、外に向かって行動し始めるということです。そこには、見知らない人がいる可能性が大きくなります。そこで、その時期には、しっかりと戻るべきベースキャンプのような安心基地を確保しておこうという、防衛的な行動も同時に取り始めます。そして、その判断を、母親など、明らかに信頼の置ける人の表情を見て判断し始めます。それは、生きていく上で、非常に大切な行為なのです。いわゆる、赤ちゃん自身が他人を判断するときの基準を、信頼する母親などに合わせていて、その人の反応によって他人を評価しているのです。赤ちゃんは、親などの目を通して他人を見るのです。この行為が「人見知り」です。
 そして、この人見知りによって、見る力、区別する力、記憶力、とっさの判断力を養っています。このとても重要な行動のために、人は、視覚的に社会的情報の認知機能と心理的な社会情報処理の二つを持ち合わせています。そして、視覚的なものとして、顔や表情の認知機能、しぐさの認知機能などがあげられます。心理的なものとしては、心の問題、他者との関係性欲求などさらに高次の認知機能が上げられます。
  これらの認知機能として、簡単にいうと、まず私たちは、人と出会って、その人が誰かを判断しようとするときにどこを見るかです。藤井さんは、人が顔を見たときの目の動きを観察してみました。すると、ほとんどの人は、写真の目と口、鼻を中心として視点を動かしているということがわかったそうです。特に視線を左右の目に向ける回数は、顔の他の部分に向ける視線と比べてはるかに多く、目には何か必要な情報があると考えます。それは、他の人の研究でも同じ結果が出ているようです。それはどういうことになるのでしょうか?気になりますね。
 
顔からの情報について5月15日頃HPに載せます。
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