藤井さんは、人が顔を認知するときには、「目」と「顔」の二つからしていると考えています。それは、それぞれが破壊されてしまった患者が存在するそうです。しかし、これまでの視覚の研究では、物の形を認識する機能について行われてきたために、顔の認識の機能も、顔という物に対する視覚の機能として取り扱われてきました。それに対して、顔の認知は、物の認知と全く違う機能であるという考えがあります。この問題については、現在も続いているようです。
藤井さんは、顔を認識する経路は、完全に独立したものとは考えていないようです。顔を認識する機能は、やはり進化的には物を認知する一部として始まっている可能性が高いからです。脳の基本的な戦略は、重要な物に必要に応じて余分なリソースを割くことで、その場合は、まったくあたらしい処理経路を作るのではなく、既存のシステムを使ってある要素に特化させる方法が効率的だからです。どちらにしても、他者の顔という視覚要素に対して特別な働きを見せる脳領野が存在していて、その部位が壊れるとその機能が選択的に失われるということは確かなようです。
では、その機能が失われてしまうと、どうなってしまうのでしょうか?いろいろな物が見えても、顔だけが認識できなくなるとどうなるかです。このようなケースは、高次認知機能の障害ですが、その感覚機能そのものが脳の中から存在しなくなることが多く、本人にはその機能が欠損したことがわからないというケースも多いそうです。いわゆる、高次機能がやられてしまうと、客観性を保つことが難しくなるそうです。
では、もう一つの認識機能の「目」についてはどうでしょうか?まず、目の動きにはどのくらい情報があるかという点です。誰かと話すとき、相手の目を適度に見て話を進めることが重要であるとよく言いますが、それにはどのような意味があるのでしょうか?藤井さんは、それをこう考えています。一つには、相手の目を見て話さないことは失礼であるという社会的な意味があります。これは、きわめて人為的な要求で文化的違いもありますが、上下関係が明らかな場合に、上位の人から要求されることが多いようです。先生から、子どもにむかって「目を見て話しなさい!」と言う場合が多いということです。
藤井さんは、こう考えています。「目を合わせるという行為は、一種の競合であり、通常回の人が先に視線を外すことで両者の上下関係が確定するからです。つまり、不安定な上下関係をとりあえずの確定状態に置くという意味で、その場の不安定な社会関係を一時固定して、話を先に進めるという役割がある。」と考えています。
もし目を合わせようとしない相手との打ち合わせは落ち着かないと言います。これは、お互いの間に社会的上下構造の設定ができず、その場にいる人々は常に不安な状態にさらされるからだと考えています。ということから、適度に目を見て話すということは、「場の社会的構造を安定させる一つの社会的な知恵」ということになります。
もう一つの意味は、相手の目の動きから情報を読み解くという役割です。目の使い方によって様々な駆け引きが可能になります。それは、非言語的な行為ですが、現代社会で生きていく上で必須条件です。それは、目に対して特別に敏感に反応する場所が脳の中にあるからのようです。この機能に関しては、特に言葉を発する事の出来ない赤ちゃんから感じることが出来ます。1番信頼している両親と先生とのやり取りの時に、きっと2人の目をよく見ているのだと思います。
その様な意味でも、家庭と園との連携やコミュニケーションはとても重要ですね。毎朝の忙しい貴重な時間ですが、ほんの一言会話をするだけで、赤ちゃんも安心するということです。是非ともご協力をお願いしますね。
「顔からの情報」
2016.05.14