木月保育園では保育方針に「仏教精神に基づく保育」を創立以来掲げています。仏教精神と言っても分かりづらいので、主に「平和」と「平等」を大切にしているとうたってます。
「平和」とはみんなが仲良くするということで分かりやすいのですが、仏教でいう「平等」という考えは、一般的に知られている「平等」とは少し違っています。一般的に言う「平等」は一つの物を半分に同じ量に分けて等しく分配することを言います。しかし、仏教では体の大きい人と小さい人ではご飯を食べる量も違いますし、それぞれ好みや趣味も違います。その中で、みんな等しく分配するのではなく、一人一人に合ったものや量を与えるのです。つまり、与える側の「平等」ではなく、受け取る側の「平等」なのです。
しかし、最近の研究では、このような木月保育園でいう「平等」ではなく、等しく分配するということをなんと赤ちゃんの頃から出来る力が備わっているというのです。赤ちゃんの力は本当にすごいですね。この研究結果を聞いて思い出すのは、どのクラスに行っても、例えば一人の子どもにジャンケンをすると、必ずと言っていいほど他の子どもも等しくやってもらうことを求めてきます。結果、その周りにいる子ども全てとジャンケンをすることになります。「私も、私も」と言ってくる中には、きっと、みんな等しくという「平等」の考えが入っているのからなのかなと思いました。
今後もみんな等しく、しかも一人一人に合った「平等」な保育を提供していきたいと思います。
(おたよりの続き)
アメリカ国立小児保健・人間発達研究所(NICHD)による研究の沿革が書かれてあります。その中にある最近の赤ちゃん研究を見ていると、赤ちゃんは決して大人の未熟な存在ではなく、大人以上に能動的な存在であることが分っています。見られるよりも、自ら見ることを喜ぶ、教わるよりも教えようとする、笑いかけられてそれに反応するのではなく、子どものほうから笑いかけている、などが分っています。
もう一つ、現場で実際に子どもを見ていると思うことがあります。それは、日本における教育基本法の中にある教育の目的に、「民主的な社会の形成者としての資質を備える」ということがありますが、赤ちゃんは元々民主的な生き物であるということを感じることがあります。人類は、生まれながら協力をするという遺伝子を基盤として生まれることが分かっています。また、人にものを分け合おうとします。その行為の中には、相手の権力、地位、そんなことは関係ありません。どちらかというと、人格重視です。そして、赤ちゃんだけに限らず、子どもの意識の中には、多数決という多い人数が少数意見を押しやるという考え方はないようです。少数意見を大切にしてあげることを見ることがたびたびあります。同時に、公平であることを大切にすることを見ることもたびたびあります。自分だけで独占しようとせず、人にものを分け合おうとすると同様に、自分だけ何かをしてもらうことはせず、他の子にもしてあげることを要求することがあるのです。
数年前に「ジャスト・ベイビー」を書いたポール・ブルームは、本書の中で、「平等な分配は、子どもたち全体の幸福を最大化する。1人に一個ずつおもちゃを与えれば、2人とも幸せ。不平等な分け方をすれば、何ももらえない子どもは、みじめ。その悲しみは、おもちゃを二つもらった子の余計分の喜びを上回る。だが、単刀直入に言おう。必要もないところに不平等を作り出すのは単純に間違っている。」
大人にとって「平等」という感覚は、とても難しいものがあります。ただ、同じようにすることが平等であることにはならないことがあるからです。しかし、1970年代に、心理学者のウィリアム・デーモンは、子どもたちの公平に対する考え方を明らかにしました。この研究は、とても影響力のあるものでした。その研究方法は、子どもたちに面接を行ない、彼らの考え方を聞いてみたのです。すると、子どもたちは結果の平等を重視し、その他の留意事項は気に留めなかったことがわかったのです。7歳4ヶ月の子どもと、面接の中でこんな会話をしています。
実験者:誰かが他の人より多くもらうほうがいいと思う?子ども:ううん。だって、それは公平じゃないわ。誰かが35ペンスもらって、誰かが1ペニーしかもらわない。それじゃ公平じゃない。実験者:クララは、自分は他の人より、たくさん物をつくったから、他の人よりお金をもらえるはずだと言ったよ。子ども:だめよ。それはおかしいわ。クララが人より多く、例えば1ドルとかお金をもらって、他の人が1セントしかもらえないのは公平じゃないもの。実験者:クララが、他の人より少しだけ多くもらうっていうのはどう?子ども:だめ。みんな同じお金をもらうべき。公平じゃないもの。
このような平等へのバイアス(偏り)は、もっと幼い子どもにもみられるようです。
10月15日ごろ平等への偏りについて載せます。