今、りす組さんが、移行で少しずつ幼児組の2階のお部屋に上がってきています。まだ慣れない環境に戸惑う姿も見られますが、遊びのコーナーには今まで以上にたくさんの物が置いてあり、興味津々の姿も見受けられます。楽しさのあまり、次から次へと遊びを変えて、うっかりお片付けを忘れてしまいます。するとそこにはそれをちゃんと教えてくれるぞう組さんの子ども達がいます。自分達も片づけをしないとみんなが困ってしまうことが理解できているのです。みんなでルールを守れるように教えてあげている姿が見られるようになってきました。自由になんでも出来るということは、しっかりとルールが守れるからなのですね。りす組さんも少しずつこのことに気がついてもらいたいと思います。
(おたよりのつづき)
世界では、今置かれている子どもの状況を憂えています。さまざまな紛争に巻き込まれる子ども達だけでなく、虐待にさらされたり、大人の配下に置かれたりする子どもたちが力萎え、自信を失ってしまい始めました。そうなると、もはや人類の未来はないのではないかということで、子どもたちが生きるプライドを取り戻し、社会を支える重要な構成員としての役割を担えるようになるためにはどうしたらいいかということを、世界の英知を結集し、10年の歳月をかけてつくられたのが「子どもの権利についての到達点」としての「子どもの権利条約」なのです。そこでは、子どもを未熟なものという「保護」の対象である客体から、権利行使の主体として認識し位置付け、締結国に対し、法的拘束力をもつ条約の形で、子どもの権利主体性を確立することを目指したのです。
この「子どもの権利条約」は、4つの柱からできています。まず、「生きる権利」で、「防げる病気などで命をうばわれないこと。病気やけがをしたら治療を受けられることなど」です。次に、「育つ権利」ということで、「教育を受け、休んだり遊んだりできること。考えや信じることの自由が守られ、自分らしく育つことができることなど。」です。そして、「守られる権利」で、「あらゆる種類の虐待(ぎゃくたい)や搾取(さくしゅ)などから守られること。障害のある子どもや少数民族の子どもなどはとくに守られることなど。」です。最後が、「参加する権利」で、「自由に意見をあらわしたり、集まってグループをつくったり、自由な活動をおこなったりできることなど。」です。
この中で、保護対象としての子どもから権利主体としての子どもへと子ども観を転換したものとして注目されたものの一つが、「意見表明権(12条)」です。もうひとつは、「表現の自由(13条)、思想・良心・宗教の自由(14条)、集会・結社の自由(15条)」などの市民的権利です。「子どもは自由に考え、自分の意見を自由に表明し、自分を自由に表現し、自由に集う権利を有する。」というもので、さまざまな自由を保障しようとしています。しかし、この「自由」についてもいろいろな誤解があります。「選択」させることによって、責任を教えるという意味もあるように、「自由」は、ルールや規律を教えるために必要なものです。ある学校の学童クラブの子どもたちに、職員が「規則」は、どんなイメージかどうかを聞いてみたそうです。すると、「いやなもの」「うるさい」「めんどくさい」「ないほうがいい」などネガティブな意見ばかりだったそうです。そこで、「じゃあ、これから規則をつくるのをやめよう!」といったところ、みんなは、「困る」「規則がないとめちゃくちゃになる」というので、「さっきはないほうがいいと言ったんじゃないの?」というと、子どもたちはその矛盾に頭を抱えてしまったそうです。
自由は、好きなことができるからいいと思いますが、好きなことができるために、お互いがきちんとルールを守るからです。その大切さは、言われたことをその通りにやっていたり、止められてやめたりするだけですと、わかりません。自由であるからこそ、その間にあるルールの必要性を感じ、ルールを守る意味を知ることができるのです。「子どもの権利条約」は、子どもの権利を守るというだけではなく、大人になってからの生きる力をつけていくという意味合いもあることに気がつきました。
次回は
2月15日ごろ載せます