人の発達は右肩上がりにあるのではなく、らせん状に上がっていくものであると言う人がいます。私の考える発達観は少し違うのですが、人の考え、理解は、らせん状により深く理解していくものだと思っています。それは、同じことを繰り返しながら、しかし、そこにまた新しい知見が加わり、よりその理解が深まっていくものだと思っています。ということで、子ども理解や、赤ちゃんの理解は、同じことをこのブログの中で繰り返しながら、少し違う観点、また違う研究者によっての知見を理解することで、より深まっていきます。そして、私からそれを読み進めることで、理論、考え方がどうも実際の園での子どもの姿、子どもの発達、子どもの行為と違和感を感じていたものだ、新しい知見によって、少しずつ納得のいくものに変わっていくことを実感しています。
特に、園では、子ども集団があり、子どもたちはその集団の中の一員として存在しています。その姿は、母子における姿とは違っていることがあります。それは、発達における発現の時期は、ずいぶんと違っている気がします。それは、人はまねをすることで学習するという特性によるもので、まねる相手がいるかどうかで違ってきます。また、人は他人を意識し、負けまいとする気持ちが赤ちゃんの頃からあります。ですから、近くに他の子がいる場合と、一人で遊んでいるときとは、その行為が違うだけでなく、発達にたいしての刺激が違う気がします。
それ以上に大きく違うのは、人との関わりにおいてです。幼児期における学びの基礎力の育成において重要であるものとして、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うこととあります。ということで、環境として大切なものが、興味を持ち、関わることのできるもの、人が必要なのです。その関わる人が、母親である場合と、子ども集団の中の一員として保育者と関わる場合とは違ってきます。
それが、長い間、母子の関わりを、保育者との関わりに当てはめ、そのモデルに近づこうとしてきました。そうであれば、当然母子の関係のように、子どもと保育者との関係を1対1に近づこうとします。そして、できるだけ子どもの視界の中に他の子どもが入らないようなかかわりをしようとします。特に、子ども同士がまだ関わらないように見える乳児において、それにこだわろうとします。それにもまして、「乳児は未熟な存在である」とか「さまざまな刺激を大人から与えなければならない」ということで乳児と関わろうとしてきました。前回までのブログで紹介したように、最近の赤ちゃん観は、ずいぶんと変わってきています。それに対して、研究はずいぶんと遅れているようですが、子ども集団における発達や関わり、特に乳児、未満児における集団の中での発達や関わりには、母子には見られない特性があるような気がしています。
そういう意味では、もう一度私たちは、子どもの社会的発達を見ていく必要がある気がしています。
「社会的な発達」
2018.02.10